貴方のために珈琲を… 後編
最近は毎日が雪だ。外に出るのも億劫になるほど寒さがハンパじゃない。今朝も生憎の天気だった。
ここは北海道。速水は今、そこに住んでいた。
十二月中旬から社内で怒濤の展開があって、様々な経緯を経て年明けから北海道支社へと転勤になったのだ。
本当は会社を辞めるつもりだった。
田口に告白し、答えをせがんだのも身辺整理のつもりだった。中途半端な気持ちのまま彼の元を離れるのは嫌だったから。
しかし様々な力が働き、最終的に速水は支社へ転勤という形で収まり、結局田口からは答えを貰えないままこちらへ赴くことになってしまったのだ。
「どうしてるかな…。」
田口の店に行かなくなってまだ半月ほどしか経たないのに、ずいぶん長い間訪れてない感じがする。
「あいつの入れるコーヒーは極上だったよな。」
離れてみてあの店のコーヒーの美味しさが身にしみて分かった。どの店で飲んでも苦かったり、酸味が利きすぎていたりと、なかなか口に合わない。
今まで他のでも平気だったのは、いつでもあのコーヒーが飲めると安心していたから代替え品でも舌が受け付けていたのだろう。
やはり田口のブレンドは絶妙だと遠く離れて痛感した。
寒いがそろそろ出勤時間だ。速水はしっかりと防寒をして家を出た。
慣れない雪道ではそう早くは歩けないので、早めに家を出るようにしていた。
電車を乗り継ぎ会社の最寄り駅で降りる。駅から会社までは目と鼻の先なので有り難い。寒さに弱くはないが、やはりこちらの寒さは特別なので自然と早くビルに飛び込みたくなり、早足になる。
正面口から入ろうとした時、ビルの側に佇む人影が見えた。
しかし速水はあまり気にも止めずビルに入ろうとした。
「速水!」
その声に速水は驚き立ち止まった。その声音が信じられなくて振り向けない。
「おい、速水。元気だったか?」
恐る恐る振り向けば、そこには……
「……なん、で?」
田口がいつもの柔らかい笑顔で立っていた。
「やっぱり北海道は寒いなぁ。お前まだ時間あるんだろ?店に寄ってコーヒー飲んで行くか?」
「…店…だって?」
「ああ。今度はこっちで店をやる事にした。」
笑顔で次々と信じられない言葉を発する田口を、速水は呆然と見る事しか出来ない。
「ほら、早く来いよ。時間無くなるぞ?」
速水ははっとして先を歩く田口の後を慌てて追った。
着いたところは会社からすぐのところ。またもやビルの隙間に店がぴったりと収まっている。
驚いたのは外観が元の店とまったくと言っていいほど変わらない事。あんなに古びた建物は探したってほとんど無いはずだ。
「おい…これって……」
田口も速水が言いたい事は分かっているらしく、ちょっと困ったように頭を掻いている。
「まぁ…あんまり気にするな。細かい事を気にするとハゲるぞ?」
「これのどこが細かいことだっ?!」
速水は声を上げずにはいられなかったが、田口はまたいつもの笑顔で「企業秘密だ。」としか言わなかった。こうなると田口が口を割らないのは長年の付き合いでわかっているので、仕方なく諦めた。
「…ったく、こうやって丸め込まれて十年以上だ。」
「じゃあ、これからも大人しく丸め込まれてくれ。」
田口が笑いながら店内へと導いた。
内装も変わらない。まるっきり同じと言っていいくらいにアンティークな椅子もテーブルも、使い込まれたカウンターさえも見覚えのあるものだ。
速水はまるで魔法にかかったみたいな気分になった。
「ほら、座れよ。」
いつも座っていた(と思われる)席にコーヒーが置かれ、速水はふらふらと懐かしい芳香に誘われて席に着いた。
温かいカップを取り上げ一口含む。
「…美味い。」
「そうか?」
「もうここ以外のコーヒーは飲める代物じゃなくなったな。おかげで出先で出されるヤツに辟易してる。」
「そりゃ…最高の誉め言葉だ。」
田口が本当に嬉しそうに笑ったので、速水は見惚れてしまう。
あっと言う間に一杯目を飲んでしまったので、田口はサービスでおかわりを注いでやった。
「これ飲み終わったらそろそろ行くわ。」
「ああ。じゃあ帰りに寄れよ?」
「言われなくてもそうするさ。」
そう言いながら口にするコーヒーは、確実に速水の心身を温めていた。
この日の速水は正直仕事にならなかった。
今朝の出来事がまるで夢か幻かみたいで、一刻も早く仕事を終えてあの店へと駆け出したかった。
終業のチャイムが鳴ると、挨拶もそこそこに飛び出して行く速水をみんなが不思議そうに見送っていたなんて、本人は知らない。
速水は逸る心のままに走って店に着いた。今朝の事が都合の良い幻でない事が証明されて安堵した。
そして扉を開ければ…田口が笑っていた。
「そんな走らなくてもいいのに。」
そう言われて、速水は息を整えてから入ればよかったと後悔した。
「何で26日は来なかったんだよ?」
田口の気がかりはそれだった。速水のことだから絶対に来ると思っていたのが意外な結果だった。しかもその後何も言わずに去ってしまうなんて…。
「実は……風邪が悪化して入院した。」
「……。」
田口は絶句して速水を見つめた。注いでいたコーヒーをこぼさなかったのが奇跡だ。
「ま、さか…お前……」
「いや、あんな大雪になるなんて思ってもいなかったからさ。ちょっと軽装備だったのが失敗だった。十一時半くらいまで粘ってたんだが、さすがに街中で遭難するのもカッコ悪いから帰ったんだが…」
「……。」
「その後が悪かった。風呂に入って寝たんだが、翌日は高熱で意識が朦朧として大変だった。」
結局病院に行ったらそのまま二日間の緊急入院だった。と苦笑をこぼし、
「今まで働きすぎのツケも一度に来たらしい。まあ、入院中腐るほど寝たら、すっきりして退院出来た。」
などとからりと笑い飛ばした。
退院後はすぐに引っ越しの準備をして年明けにはすでにこっちに来ていたらしい。
田口は少し青い顔をしていた。
「そ、んな…あの日は用事があるからいないって……」
「知ってたさ、そんな事。待ってたのも風邪をひいて倒れたのも俺の勝手。だからお前が悪く思う必要は全然無いから。」
田口のそんな顔は一度も見たことがなかったので、速水は少し焦った。しかし、心配されているのが嬉しいと思うのも事実だ。
「ところで…何で俺がこっちにいる事を知ったんだ?」
速水が当然不思議に思うことだった。田口はあーとか、うーとか口ごもっていた。
「内緒だ、なんて言っても納得しないだろうな。」
「当たり前だ。聞きたいことは山ほどあるが、取りあえず他のは目を瞑ってやるからこれだけは聞かせろ。」
と詰め寄られると、田口は観念した。
「…高階さんに聞いた。」
「え?」
速水の顔が一瞬呆けた。
「高階…高階って……ウチの社長じゃねぇかよっ!ってか、何でお前が知ってんの?!」
「実はウチの常連だ。」
「な…っ!」
速水は十年以上通っていて、全然気付かなかった。
「あの人に聞いてお前の転勤を知った。転勤と言うより実は懲罰人事だって事も聞いた。」
「……そうか。」
速水は自分の所属部署と部下達を守る為に不正を働いた。決して私利私欲の為ではない。それは調査でも明らかになっている。
しかし不正であることに代わりは無い。規則を破ったのだからペナルティを負わねばならないのが道理。上層部の出した結論は、降格の上、数年間の地方勤務という処分だった。
「俺は会社を辞めるつもりだった。辞表はいつでも出せるよう、当初から内ポケットに入れてたさ。後は他の奴らに迷惑が掛からないようにするだけだった。」
「……お前らしいな。」
田口は呆れながらも、少しだけ悲しそう笑った。
「だから、あのタイミングで告白したんだ。あの時はもう俺のクビも時間の問題だと思ってたからな。身辺整理のつもりだった。…結局は会社に残る事になったが。」
速水は出されたカップを持って、揺れるコーヒーの表面を見つめた。
「速水……お前さ、俺がもしOK出してたらどうするつもりだったんだ?」
「え?」
速水が顔を上げると、そこには田口の呆れ顔が待っていた。
「俺がOKしてもお前は会社を辞めて、二度と会わないつもりだったんじゃないのか?お前のことだから辞めた会社の目と鼻の先の店なんかに来るはずないもんな。」
「……。」
「随分と失礼な話じゃないか。答えがどっちでもお前はさっさといなくなるなんて身勝手だ。馬鹿にするなよ。」
「いや…そんな、馬鹿にするつもりは無かったんだが…」
「速水。」
「どうせダメだと思ってたんだ。考えたってそんな簡単に受け入れられる事じゃない。最初は俺がお前を好きだったって言う事実だけ知ってくれていれば良いと思ったんだ。でも…土壇場でやっぱり答えも聞いておいた方が諦めもつくと思ったから。」
その答えに田口は大きく嘆息した。
「なあ…今なら答えてくれるのか?」
速水の声が少しだけ震える。それは恐れなのか、期待なのか。
田口は真面目な顔になったが、すぐに笑って言った。
「お前さぁ、俺がここまで来てるんだぞ?少しは察しろよ。」
「え…」
速水の端正な顔がぽかんとなって空間に貼り付いた。それがまたツボに入ったのか、田口は大笑いだ。
「おまっ…人が真剣に悩んでる事をな」
「あ~、悪い。お前のまぬけ顔が面白くて……」
「おいっ!」
思わず声を荒げてた速水に対し、田口は今度は優しい微笑に変わった。
本当は……
速水が店に現れなくなってから、少しだけ焦っていた。あんなに一人の客を待ち焦がれるなんていう経験は一度も無かった。
答えを出さなかった事に対して腹を立てているのか、それとも諦めてしまったのか。
いずれにしろこのまま会えないのは悔しいし、困るし…とにかく嫌だと思った。
だから年明け早々に来た高階に、自ら速水の事を聞いてしまったのだ。そしてあそこにいないと解ると、すぐに追いかける算段をしていた。
…もう答えは決まっていた。
「なぁ…俺はずっと北海道にいるとは限らないぞ?」
速水が唐突に言い出し、田口は首を傾げる。
「サラリーマンに転勤は付き物だ。次は名古屋あたりかもしれない。」
「ああ、あそこは喫茶店激戦区だよな。サービスは難しいが、ウチは正統派だから味に自信はある。」
「沖縄にも支社がある。」
「うん、暑いところも良いな。暑いとアイスコーヒーが主流か?」
豆を変えないとなぁ、などと暢気に言っている。
「…海外支店かもしれないぞ。」
「あ、海外ならイギリスにしてくれ。向こうのティータイムにコーヒー持って乱入してやる。」
などと息き巻くものだから、速水はついに吹き出してしまった。
田口はカウンターから出てきて、速水の隣に腰掛けた。長年通っていたが、こんなことは初めてだ。
カウンターという壁を越えて田口が急に身近になり、速水は年甲斐もなくどきどきした。
間近で見る田口が、とても愛おしい。その視線を感じ取ったのか、田口は椅子ごとそっぽを向いてしまう。
「そんなに見るな。」
ぶっきらぼうな口調だが、気分を害した訳ではなさそうだ。…耳が赤い。
「なぁ、俺は…自惚れてもいいのか?」
速水は立ち上がって、思い切って田口を後ろから椅子ごと抱きしめた。田口も嫌がる様子は無い。
「…お前が来ないと……楽しくなくなった。」
その言葉は掛け値無く田口の本音。そう感じた速水の腕に力がこもった。
「俺も好きだよ…速水の事が。」
そう言って椅子から見上げる笑顔の田口。速水も釣られて笑みがこぼれた。
田口は
「お前は悩んでも笑ってもカッコいいな。」
と言って速水の顔に手を伸ばす。それを速水はしっかりと掴んで……
二人はそっと唇を重ねた。
おしまい
「なぁ……お前ってもしかして…本当にサンタ」
(田口、速水の唇を人差し指で押さえる)
「…秘密。これ以上は聞かないんだろ?」
(ニッコリ)
本当におしまい
行灯がサンタなのか否かは…それは我が家の企業秘密です(笑)。