嵐の古巣への帰還
『すみませんが、至急院長室まで来て下さい。』
朝一番の内線が病院長からとは穏やかではない。しかも用件も言わずに紋切り口調なのが更に俺の不安を煽り立てる。
そう言えば藤原さんも出勤早々、誰かに呼ばれて出て行ったきりだ。脳内で赤色灯がもの凄い勢いで回転し、けたたましい警報音が鳴っている。
あの調子は絶対に厄介事だ。出来れば行きたくない。ああ、鳥肌も立ってるし…
しかし平の講師ごときが病院の長に逆らえる訳がない。
俺は観念して仕方なく部屋を後にした。
院長室の扉をノックすると「どうぞ」と返事があり、俺は渋々だが中に入った。そして…目を疑った。
「院長…それは何の扮装です?」
思わず礼を失した言葉を零してしまった。いや、誰だってそう思うはずだ。目の前にいる院長は髪をきれいに撫で付け、白いネクタイと黒の礼服をぱりっと着こなした姿だ。
「あ、あの…何かお祝いでもあるんですか?」
おずおずと聞く俺に院長は人の悪そうな笑顔を見せる。……これは危ない兆候だ。
「さ、田口先生も着替えて下さい。」
「は?!」
「あ、衣装の手配はしてありますから。…藤原さん、準備はどうですか?」
そう声を掛けると続きの部屋から彼女が顔を出した。こちらも何故か正装…しかも三つ紋の美しい黒留め袖だ。
「ふ、藤原さん?!」
「大丈夫ですよ。さ、田口先生早くこっちに来て!」
どうして、と問う間もなく俺は手を引っ張られ隣室へと引きずり込まれた。そして三度目を瞠ることとなる。
目の前に吊されている衣装は黒の紋付き袴。何で…どうして……??
「さ、先生。着替えるわよ。」
「はぁ?!わ、私が着るんですか!!」
「当たり前でしょ。先生以外に誰がここにいるのよ。」
藤原さんは当たり前のように言うが、俺は全然納得出来ていない。納得する前に状況がまったく掴めていない。
「院長と言い、藤原さんと言い…いったい何事なんです?」
「ほら、もう時間が無いから。そんな些細な説明は後よ。」
「いや、些細じゃない…」
「いいから早くなさい!」
藤原さんに一喝されれば俺の立場なんて軽く吹き飛ばされてしまう。強引に白衣と上着、シャツを剥ぎ取られ…あとは為す術もなかった。
「おや、なかなかお似合いです。」
着替えが終わりようやく解放されると藤原さんに今度は部屋の外へと押し出され、待ち構えていた院長に笑顔で出迎えられた。当然だが俺は憮然として返答すらしない。こんなもんに袖を通すのは七五三以来だ。
「院長、そろそろお時間ですよ。」
「ああ、本当だ。じゃあ、行きましょうか。」
「へ?ど、どこへ?」
「行けば解りますよ。」
今日は質問ばかりだが、どれにも明確な回答は返って来ない。ここまで来れば仕方ないので俺は二人の後をとぼとぼと着いて行くしかない。
エレベーターホールまで行き黙ってエレベーターを待っていると…
「よう!」
「え、……ええっ!」
声を掛けてきた相手を見て俺はいろんな意味で思わずのけ反ってしまった。なぜ彼がここにいるのか、どうしてそんな格好をしているのか…今日は何か仮装パーティーでもあるのか?
「は…はや、み?」
なぜか速水も俺と同じく紋付き袴姿。俺は黒だが、あいつは白だ。普通ならそれこそ七五三か芸人にでもなりそうだが、男前は白の紋付きを着ても様になるんだから嫌になる。
「本当はお前に白を着せたかったんだけどなぁ。」
「は?何言って…」
「まぁ、速水先生!よくお似合いですわ。白は先生の華やかさを引き立てますもの。素敵です。」
「藤原さんにそう言って頂けるとは光栄ですね。」
「それに先生が黒をお召しになると…迫力と威圧感があって。田口先生は黒の方が断然引き締まりますわ。」
「だから!この状況は何なんですかっ?!それに何でお前がここにいるんだよ?!いつ帰って来た?!」
俺が癇癪を起こしたからと言って動じるようなメンバーではない。三人は顔を見合わせてニッコリと会心の笑みを浮かべる。
「なに、すぐにわかりますよ。」
「心配ないわ、先生。」
「帰って来たのは昨日だ。すぐに会いに行かなかったから拗ねてんのか?」
三者三様のトンチンカンな答えに俺は目眩がしそうだ。
チ~ン、と軽快な音がしてエレベーターの到着が知らされる。
「さ、乗りましょう。」
藤原さんが先に乗り込み俺達を誘い、行く先は最上階の満天だった。
「あの…」
「あら、院長。ネクタイが曲がってますわ。」
藤原さんが目聡く指摘してすっと院長の襟元に手を伸ばした。
「ああ、すみません。藤原さんのお着物は素敵ですね。自前ですか?」
「ええ、この年になればこれくらいは持っていないと…」
「あの、すみませんが…」
「藤原さんの和装なんて初めて見るから新鮮だな。」
「私だって速水先生のそんな立派な姿が拝めるなんて夢にも思いませんでしたよ。」
「……。」
三人はいたって穏やかだが、俺は故意的に無視されているようだ。
そんな事を思っている内にエレベーターは目的の最上階に到着し、するりと扉が開いた。そして、開いて一番に目に入ったのは…何故かスーツ姿の丹羽さんだった。
「に、丹羽さん?!」
丹羽さんは行儀良く俺達(主に院長に対してだろう)にお辞儀した。
「準備は整ってます。もう皆さんお待ちですよ。」
「ご苦労様でした。」
院長が労うと丹羽さんはもう一度お辞儀した。
「ちょ、丹羽さん!この騒ぎは何なんです?!」
ようやく答えてくれそうな人を見つけ、俺は藁にも縋る思いで詰め寄った。が、丹羽さんも一筋縄では行かない人だ。
「先生、もうまな板の上に乗っちゃってるんだから大人しくしてるしかないでしょ?」
逆に諭すように言われてしまい俺はがっくりと肩を落とした。
「いいじゃない先生、お目出たい話なんだからね。さ、胸張って!」
そう言ってポンと俺の背中を叩いた。
「お、おめでたい?」
確かにこの格好はお祝いだが…さっぱり読めない。そんな疑問符だらけの俺の肩を今度は速水が叩き
「ほら、行くぞ!」
と腕を引かれ、閉ざされていた満天の扉が開かれた。
「うわっ!」
突然光の嵐が俺を襲った。目が眩んで立ち止まった俺に速水が「大丈夫か?」と聞くが、それに答えるほどの余裕は無かった。何か言葉が飛び交うが、それも動転して聞き取れない。
ようやく目が慣れ周囲を見回せば…なぜか報道陣がいた。バチスタスキャンダルの時に比べれば少ないが、そこには確かに複数の記者とカメラマンがいてこちらにカメラと視線を向けている。
そして一番首を傾げたくなる存在。それはドンと置かれた金屏風と白いクロスを掛けられたテーブル…まるで高砂だ。
高砂に礼服……まるで芸能人の結婚会見のようだ。
―――ん? け、っこん?
「なぁ、速水?」
俺は隣に並ぶ男の袖をくいっと引っ張る。
「ん、何だ?早く席に着こうぜ。」
にっこりと獰猛な虎が笑った。俺は後ずさろうとしたが、真後ろにはいつの間にか藤原さんが控えている。
「さ、先生。行きましょ。」
こちらも満面の笑みだが、ひどく恐ろしいモノを見た気がする。全身から逃がさないと言う気迫が感じられ、俺は蛇に睨まれた蛙状態だ。
俺の意志を無視してすべてが進んで行く。俺と速水は四つある席の真ん中に座らされ、その両脇を院長と藤原さんががっちりと固めた。
「え~、ご両人が着席されましたのでさっそく始めたいと思います。」
間髪入れずの唐突なナレーションに俺はぎょっとして右手を見ると、病院随一の名物司会者である兵藤が目をキラキラさせながら、しかし半ばやけくそのように笑顔でマイクを握っていた。
「皆様、お待たせいたしました。ただいまより当病院のオレンジ元センター長速水晃一と神経内科講師である田口公平の…結婚会見を行います。」
「………はぁぁぁっ?!」
思わず俺は椅子を蹴って立ち上がってしまった。
結婚? け、結婚?! 俺と速水の?!?!
「さ、先生。落ち着いて座って下さいな。」
隣の藤原さんが満面の笑みで、しかし有無を言わさぬ口調と態度で俺に声を掛けるがどう言われたって納得が行かない。
「だって…何です、これは!どう考えたっておかしいでしょ?!」
「後で説明しますから。」
「後じゃ遅いです!」
「…おい行灯、いい加減座れよ。」
反対に座る速水の落ち着きぶりが更にしゃくに障った。
「冗談じゃない。何だ、この茶番は。」
「お前、自分の結婚報告を茶番と言うか。とにかく座れよ。座らないと……」
速水が俺の袖をぐっと引いて耳元に顔を寄せた。
「座らないとここで抱きしめておもいっきり全力でキスするぞ。」
「なっ…」
俺は顔が赤くなったのを自覚して余計恥ずかしくなる。速水は有言実行の男で、たまに常識にさよならをする。
…この男はやるに違いない。
俺は渋々と、本当に仕方なく着席した。
「ようやく痴話喧嘩も終わったようですので進行させていただきます。」
兵藤の言葉に会場内にくすくすと笑いが広がる。あの野郎、絶対に虐めてやる!ウチには生涯出入り禁止だ!
「それではまず当病院院長の高階よりご挨拶を…」
そんなやり取りが始まり、俺は挨拶とやらを聞き流しながら憮然として周囲を伺う。
カメラマンや記者の他に後ろの方には何故かテレビカメラまで入っているようだ。
「おい、何でテレビクルーがいるんだ?」
隣の速水に小声で聞くと高階が面白がって声を掛けたら本当に来てしまったとの事だ。
「あとでネット配信もするらしいぞ。」
「なんてこった……」
一体、何でこんな辱めを受けなければならないのだろう。
別に速水との関係は後悔していない。しかし公にして良いものじゃないだろう。俺たちの関係を明らかにしてプラスになる事なんて何一つ無いに決まってる。それを院長も速水も、ついでに藤原さんまでもがこの頓珍漢なお祭り騒ぎに興じているなんて…未だ信じられない。挨拶を続ける高階はいたってにこやかな表情で、心から祝福しているような具合だ。しかし、これもまた何か高階の策略なのではないかと勘ぐってしまう辺りが散々な目に遭わされてきた者としての感想だ。
「それではご質問のある方は挙手をお願いします。」
挨拶が終わったところで兵藤がこの場を仕切り出すと、すぐに数人が手を挙げた。
「あの、お二人はいつ頃からのお付き合いなのでしょうか?」
―――そんなこと言えるか!
「…そうだな。友達時代を含めると二十年くらいだが、恋人になったのは十年くらい前だな。」
速水が馬鹿正直に答え、俺はぎょっとしてしまった。速水の答えに会場がほお…とざわめく。
「お付き合いのきっかけを教えて下さい。」
なにも言うな、ノーコメントで通せ…との願いも空しく
速水は堂々とそして喜々として答え始める。俺がここで止めようとすればこいつの事だから面白がって調子に乗るに違いない。
「俺は学生の頃からコイツに気があった。しかしコイツは究極の鈍さで気付かない。さすがに悶々とした日々を送るのも空しくなって、ある日…」
「だぁー!ストップ!ここから先はプライベートなのでお話致しかねますから…。」
慌ててこの話題を遮る。これ以上はとても公に話せることじゃない。俺はテーブルの下で思い切り速水の足を踏んづけてやった。
記者たちはこの程度の妨害は想定内らしく、ちょっと苦笑しただけで次の質問が飛んでくる。
「プロポーズの言葉は?」
そんなのされた覚えは無いぞ!と叫ぶ前に速水がすかさず答えに出た。
「まだしてない。今、これからする。」
「はぁぁっ?!」
俺はまた奇声を上げてしまい、会場はおおっ!とどよめいた。さすが主役になる方法を心得ている…なんて感心してる場合じゃない!
「立て、行灯。」
そう言うと同時に速水は俺の腕を取って無理矢理立たせる。そして向き合い、速水に両肩をしっかりと掴まれた。
「行灯、いや田口。愛してる。俺と結婚してくれ。もちろん法律上は無理な話だが事実婚と言うやつだ。お前以外を伴侶にする気は…俺には無い。」
「は、速水……」
速水の真剣な熱い眼差しが俺の目を、心を貫く。掴まれた肩から本気の熱意が伝わって来るのが解ってしまった。
その間周囲では激しくフラッシュがたかれ騒然とした雰囲気になっていたのだが、俺は動揺の方が勝ってまったく気にならなかった。
俺だって速水の事は好きだし、出来る限り寄り添って行きたいと思うのには変わりない。
しかしソレとコレとは話が別だ。こんな事はプライベートでやって欲しい。それなら俺は…簡単に頷けたのに。
俺は俯いてしまった。
「よし!決まりだな。結婚成立だ。」
「えっ?!な、何で?!」
「だってお前今、頷いたじゃないか。」
「違う!俯いただけだ!」
「じゃあ、駄目なのか?俺はお前を隣には置けないのか?」
「いや、それはそうじゃ…」
「なら、いいんだな?いいんだよな?」
ぐいっと迫られ、迫力負けした俺は思わず頷いてしまった。
「よし、はいコレ。」
そう言って渡されたのは指輪のケース。中にはプラチナのシンプルな指輪が二つ鎮座している。速水が片方を取り上げて俺の左手の薬指にはめる。
「ほら、行灯。」
速水はそう言って自分の左手を俺に差し出した。もちろん指輪をはめろと言う事なのだろうが、ここにいる全員の視線が痛くて躊躇してしまう。
「行灯。」
速水がひどく優しい声で俺を呼んだ。その顔は嬉しそうにそして穏やかに笑っている。
―――ここでその笑顔は反則だろ…
そんな期待と喜びに満ちた顔を見せられたら、もう乗せられるしかなかった。俺は観念して指輪を取り出すと、速水の望み通りにしてやった。
その瞬間、三度フラッシュの嵐が起こりその中で速水は改心の笑みを浮かべていた。
「指輪を見せて下さいっ!」
「お二人揃ってお願いしまーす!」
記者達の声が飛び交い、速水が俺の左手を持ち上げて自分の手と並べて自慢げに見せる。俺はもうあらがう気力も失せて、為す術もなくされるがままだ。
「突然の結婚会見ですが、何か理由でもあるんですか?」
写真撮影が一段落したところで再び質問が飛んできた。
そうだ、俺だってそれは知りたいところだ。
「……誕生日。」
「は?」
「へ?」
俺も記者達と一緒になって間抜けな声を上げてしまった。
「たん‥じょう、び?」
自分で呟いて改めて脳内でカレンダーを確認すると…そう言えば今日は自分の誕生日だった。もうこれくらいの歳になると歳を数えるのだって面倒になるし、第一誕生日を心待ちにする歳でも無くなった。
「こいつの誕生日だし記念日にもなるし、しかもジューンブライドで一石三鳥だ。」
からりと笑う男前の顔に熱い茶でもぶっかけてやりたいと切実に思う。何が一石三鳥だ!馬鹿も休み休み言え!
俺の心情とは裏腹に、会場の記者達の間にも和やかな雰囲気が漂いそれが更に俺を苛立たせる。
苛立つ、と言うよりも羞恥の極みだ。
ピピピピピ……
突然聞きなれた電子音が近くで鳴り響いた。
「はいよ。」
……何で速水のPHSが鳴るんだ?
「…ああ、分かった。すぐ行くから準備しとけ。」
は?こいつ何言ってんだ?すぐって、ここ桜宮だぞ?
速水は通話を終えるとすぐさま席を立って満天の出口へと向かった。記者達が慌てて後を追い、俺もそれに倣った。
「おい、速水!」
「行灯、後はまかせたからな!」
速水が扉を開けると、何故かそこは本館屋上で桜宮には無いはずのドクターヘリが待機していた。
「なっ!?」
「じゃあな!」
いつの間にか真っ赤なフライトスーツに着替えた速水が素早く乗り込むと、あっと言う間に大空の彼方に消えてしまった。
「………。」
誰もが呆然と青空を見上げていた。そんな中、誰かが俺に問いかけた。
「田口先生は一緒に行かれないんですか?」
「…は?」
「そうですよ!ご結婚されたんですから一緒に住むんじゃないんですか?!」
「え、ちょ…」
「一緒に住まれるなら病院はお辞めになるんですよね?!」
「専業主夫になられるんですか?!」
「ま、待って…」
速水の去った今、当然質問は俺に殺到してにわかに押し問答となった。詰め寄る記者達の凄まじい迫力に俺はたじろぐしかなく、あっと言う間にもみくちゃにされた。
「ちょっ、すみま‥せん!どいて…!」
この混乱から脱出しようともがいて見ても、まったく身動きが取れない。その内着物の裾が足に絡まり……
「うわっ!」
俺はみっともない声を上げて大転倒した。
「………ってぇ…」
俺はソファから派手に転げ落ちて目が覚めた。
「…何だったんだ、今のは。」
寝起きの回らない頭で先ほどまで見ていた夢を反芻して大きな溜め息をこぼした。
昨晩はほぼ徹夜状態で様々な報告書などを書き上げ、今日は診察が無いのを良いことに藤原さんの目を盗んで惰眠を貪っていたのだ。
それにしても悪夢としか言いようがない夢だった。怠けていたから罰が当たったのだろうか?
「…ふぅ……仕事するか。」
俺はひとつ伸びをすると、仕方なくデスクに座りパソコンを立ち上げた。
その頃院長室に、北から新巻鮭を担いで来た男が居座っている事なんて知る由も無かった。
更に後ほど土産代わりにと婚姻届けをここへ持ち込んで来るなんて……
おしまい