貴方のために珈琲を… 一期一会・後編
また変わらない日々がやって来る。
出勤して会議に参加し、部下の進める取引を確認してGOサインを出す。必要とあらば自分が出向き陣頭指揮を取るその姿は威風堂々とした将軍さながらだ。
これが速水の毎日。仕事一色の男のプライベートは誰も知らない。彼の息抜き先など誰も見当もつかないし、もちろん目下恋愛真っ最中なんて事も気付かない。
勘の良い人は何となく雰囲気が柔らかくなった気がすると思うが、仕事の鬼に単刀直入に聞くような剛の者はいなかった。
だから彼の恋人が会社近くの喫茶店店主の男性だなんて、誰も思っても見なかった。
仕事終わりの速水がその店の前を通るとまだ開いていた。今の時間は午後七時の少し回ったところで、速水にとっては早い帰宅時間だがこの店はいつもならとっくに閉店してる時間だ。気になって古い扉を開けて見れば、恋人が本を片手に珈琲を楽しんでいて、人の気配に彼は顔を上げた。
「…珍しいな、こんな時間まで。」
「なんだ、速水か。」
「俺で悪かったな。」
速水が拗ねた顔付きになると田口は笑いながら
「悪い、待ち人来るかと思ったんだ。」
と素直に詫びた。
「この前会った彦根が島津の事言ったの覚えてるか?」
「あ…ああ、先輩だとか何とか言ってたな。お前の事を心配してたって。」
「これからそいつとここで会う約束してるんだ。」
などと言っていると…
「遅くなってすまん、行灯!」
と言いながらドカドカと入って来たのはヒゲ面の大男。速水も標準より大柄だが、この男も似たり寄ったりの大きさだった。
しかし速水が反応したのはそこじゃなかった。
「あん、どん?」
速水が首を傾げて田口を見ると、ものすごく嫌な顔をしていた。
「いいかげん昔のあだ名はやめろ。」
「そんなの今更だろうが。今も昔もお前はそう変わらん。」
そこまで話してヒゲ男はようやく速水の存在に気付いた。
「ん?あんた…もしかして」
「ああ、こいつが速水だよ。――速水、こいつは島津。俺の腐れ縁の友人だ。」
紹介も済んだところで速水はさっきの疑問をぶつける。
「なんで行灯なんだ?」
「ああ、こいつは昔っから物ぐさでぼーっとしてるから、そのまんま昼行灯だろ?」
「…ああ、なるほど。」
速水が手を打って納得し、島津が「だろ?」と我が意を得れば
「だろじゃない!速水も納得すんなっ!」
と田口が怒り出す。それがまたおかしくて、ついついからかいたくなる。
「おい、話があるんだろ!話さないんなら帰れよ!」
田口が本格的にへそを曲げる前に島津は軽く謝って、そして意味ありげに目配せをする。その意味を分からないような田口ではない。
「速水、悪い…。その、島津とちょっと込み入った大事な話があるから遠慮してくれないか。」
「……。」
「…ごめんな?」
そこまで言われれば速水も子供ではないのだから苦笑しながら了解の意を表す。
「分かったよ。じゃ、またな。」
「ああ。」
速水は島津にも軽く挨拶をして店を出て行った。
「…なるほど、アレがお前さんの男か。」
「生々しい言い方をするなよ。」
田口は膨れながらも島津の為に珈琲を準備してやる。島津の好みは酸味の効いたモカだ。
「彦根の言ってた通り、お前は面食いだな。」
「うるさい。話がそれなら珈琲は出さん。」
「そう拗ねるな。しかし…お前、アノの話はしたのか?」
田口は一瞬手を止めたが、答えなかった。
「ま、話さずに付き合って行くって言う選択肢もあるな。別にどうしても言うべき事でもないし。」
島津はカウンターに陣取り腕組みしたまま田口の姿を見つめる。
「…ああ、そうだな。」
「本気か?」
「……。」
「お前は嘘は嫌いなはずだ。」
「…聞かれないから言わないだけだ。」
「今は、な。」
確かにこれからの付き合いで不思議に思うことはあるだろう。それにすでに一度誤魔化している。
「まぁ、お前のプライベートだ。俺がとやかく言う筋合いは無いな。…悪かった。」
「いや…」
島津が本当に心配してるのは痛いほど田口には伝わっている。彦根だって口は悪いが田口の事を思っているのだ。
―――腐れ縁でもいい奴らに巡り会えたのは幸運だな。
田口は内心で感謝しながら、今は島津のために美味しい珈琲を入れていた。
数日後、速水は今日の業務最後の堅苦しい会議を終えた後、終業ベルと同時に会社を飛び出し田口の元へと駆け込んだ。
「ったく、お偉方の頭は頑固でかなわん!」
速水はほとほと疲れたようにカウンターに突っ伏して愚痴をこぼす。
「ささやかでも権力を持った年寄りなんてそんなもんだろ?」
田口が辛辣な言葉を挟みながら速水を宥めるのはいつもの光景だ。そしてこれもいつものように速水のお気に入りブレンドの珈琲を提供してやる。早速一口飲んで速水は満足げな吐息をこぼし、田口はそれを見てにっこりと笑った。
「ほんとお前は美味そうに飲んでくれるから、俺としても入れ甲斐があるよ。」
「お前が入れた珈琲を不味いなんて言う罰当たりはしないさ。まして恋人なら、な?」
からりと笑う速水はいろんな意味でやっぱり良い男だと田口は思った。
「…こんにちは。」
店の扉が開くと同時に、可愛らしい声が聞こえた。
入って来たのはこの古めかしい店には似合わない、ブレザーの制服を着た少女だった。
田口はいつもの優しい笑顔で出迎えた。
「おじいちゃんに言われて…これ、持ってきました。」
そう言って少女が取り出した物を見ると、速水は思わず声を上げてしまった。
「そのパイプ…」
それは先日店で行き会った老紳士がくわえていたパイプにそっくりだった。綺麗な艶のあるパイプで、嗜まない速水ですら印象に残る美しさだった。
「え、おじいちゃんの事、知ってるんですか?」
「いつだったかな…十日くらい前にこの店で見かけただけだがな。」
少女は不思議そうな顔で速水を見たが、やがてちょっとだけ笑って言った。
「それじゃ、人違いです。おじいちゃんが亡くなったのは先月で、この前四十九日の法要が終わったんです。」
「え…?」
速水は反射的に田口を見た。
田口は…うっすらと悲しそうな笑みを浮かべている。それは何もかも知っていたような表情。
少女の話では、自分が死んだらこのパイプを田口に届けるよう孫娘に依頼してあったらしい。このパイプを評価して価値の分かる人に持っていて欲しいというのが願いだったと言う。
「おじいちゃん、半年くらい前から入院してて。大好きだったこのパイプもずっと使ってなかった。本当はすぐに持って来たかったけど……」
この子はとても祖父を慕っていたらしく、形見の品を手放すのが惜しかったようだ。
「でも、おじいちゃんは約束破るの嫌いだったから…」
そこまで言って少女はパイプを田口に差し出し、田口はそれを受け取ってそっと撫でた。
「…わざわざ届けてくれてありがとう。大事にするね。」
田口は棚から小さな包みを取り出し少女に手渡す。
「これはおじいさんが好きだった珈琲だ。お仏壇にお供えしてもらえるかな?」
少女は包みに顔を寄せると「…良い香り」と微笑んだ。
これから塾があるから、と田口のお茶の誘いを断って少女は行儀良く礼を言って帰った。
また二人きりになり沈黙が落ちる。
「…お前、あのじいさんが死んでた事に驚かないのか?」
「……。」
「だってアレは」
「俺には分かってたんだ。あの人が入って来た瞬間すでに亡くなってるって。」
田口はきっぱりと、しかし静かな口調で言い切って速水の目を覗き込んだ。その強い視線に一瞬速水はたじろぐが、しっかりと受け止める。何かある、と速水の勘は告げていた。
しばらく見つめ合ったが、視線を外したのは田口が先だった。そのまま速水に背を向けて豆の置いてある棚を整理し始めた。
「たぐ…」
「なぁ速水。仏教の法要で上げる読経の事、知ってるか?」
唐突な問いに速水は首を傾げる。
「俺も聞きかじりだが、あれは三部構成なんだって。」
田口は顔を見せぬまま語り始める。
「宗派にもよるけど…序盤は現世での苦しみや悲しみ、辛さを語り中盤で死者にもう現世から解き放たれてあの世へ向かいなさいって引導を渡す。そして最後の部分は死出の旅路の応援歌みたいなものなんだとさ。」
「……。」
「死者は七日ごとにあの世に近づいて、四十九日でようやく死後の安寧の地にたどり着く。その間に魂は今生の未練を削ぎ落として行く。」
ゆらりと振り向いた田口の顔は、今までに見たことのない表情。青白く透き通ったような冷たい顔。
速水は息を飲んだ。
「だから『一期一会』なんだ。この世へ残った未練や悲しみを聞き取り、昇華する為の手伝いをする。そして死出の旅立ちを心からのもてなしで送り出す。―――それが俺のもう一つの仕事だ。」
「な…」
「この店は普通の喫茶店でもあるけれど、死せる者の禊ぎの場でもある。」
「たぐ、ち…」
「なぁ速水。俺がどう見える?ちゃんと人間に見えるか?」
速水は現実離れした話に言葉を失った。冗談だろと言うには余りにも空気が冷たい。真剣すぎる田口の表情が真実を語っていた。
何も言えない速水に対し田口はくるりと背を向けた。
「…信じられないよな、普通は。こんな非科学的な事を言い出すなんて妄想過多のおかしい男だと言われても仕方ない。」
「…言われた事があるのか?」
田口の背を見ながら速水はとっさに呟いていた。
「まさか…この秘密を他人に話すのは島津と彦根に続いてお前が三人目だ。」
「あいつ等は信じたんだ、最初から。」
「ああ。あいつ等もこの手の関係者だから。」
そういえばあの二人は仕事がらみの付き合いだと言ってたな…と速水は思い起こす。
速水は現実主義者だ。どんなに異常な状況でも、自分の目の前で現実に起こっているそれだけが真実だ。真実を否定するのは愚かな事だと理解している。
田口がそう言うなら事実なのだろう。実際、現場に立ち会っているのだから否定のしようもない。
「なぁ、こっちを向いてくれ。」
速水はなるべく静かに言葉を掛ける。田口の背中は強ばっていて、今にも消え入りそうな風情だから。
「ちゃんと顔を見て話がしたい。」
「…俺は……お前にふさわしくない。半分彼岸に足を突っ込んでるような俺は」
「やめろ。それ以上言うな。」
速水は立ち上がってカウンター横へと歩く。そして中へ入る簡単な扉の前で一瞬躊躇ったが、思い切ってカウンター内へと踏み込んだ。田口の聖域へいきなり土足で乱入したような申し訳なさはあったが、そんなことに構ってはいられない。
「お前、俺が北海道に左遷になった時は追いかけて来たよな?あんなことしておきながら、今更そんな事を言うのか?ふざけるな。」
速水は正直に怒気を露わにした。
「あっちでも毎日のように会って、恋人になってキスして、何度もお前を…抱いた。お前だって嫌がらなかった。」
田口の肩がびくっと震える。
「それは…」
「俺は…そりゃそんな話、驚いたが…。事実なんだろ?お前がそんな手の込んだ嘘を言う訳無い。」
「……。」
「隠そうと思えば隠せた話だ。さっきの女の子の話だって『お前が見たのは別人だ』と言えば済んだはずだ。でもお前は否定しなかった。…俺に真実を知って欲しかったからなんだろ?」
「……ごめ、ん。」
「なんで謝る?俺は本当の事を言ってくれて嬉しい。何をしていてもお前はお前だろ。」
速水はゆっくりと近付いて田口を後ろから抱きしめた。
「好きだよ…変わらずに、お前が好きだ。」
腕の中で田口が小さく身震いした。
「俺は…死者と会話出来る。それを変だと、気持ち悪いと思わないのか?」
「世の中これだけ人間がいるんだ。特異能力のある奴が何人かいたって不思議じゃない。」
「…人では……無いかもしれないって思わないのか?」
「お前がお前なら何だっていいさ。妖怪でも幽霊でもお前ならそれでいい。」
田口の声が途切れ、歯を食いしばるように小さな嗚咽が漏れ聞こえる。速水は愛おしさに溢れ、束縛の腕を強めた。
「馬鹿だなぁ…お前が人間の男だなんて分かりきってるよ。お前の身体なら隅々まで知ってるんだからな。」
耳元に唇を寄せて『内股の黒子の位置から、中の熱さまで』と囁き耳朶をそっと舐めると、田口は違う意味で身を震わせて…それでも泣き笑いの顔で速水の頬を黙ってつねってやった。
「速水は…男前なのに俺を選ぶなんて悪食だな。」
「そうかな…そう言うお前はどうなんだ?まだ俺から逃げたいのか?」
田口は腕の中でしばらく黙っていたが、おもむろに速水の手に自分の手を添えた。
「俺は…お前の為に……珈琲を入れたいな。これからもずっと…」
そう言って速水の指先に口づけを落とした。
その日の夜、速水は田口の部屋に泊まった。
僅かな不安も払拭するよう田口は求め乱れ、速水もそれに応えて何度も愛した。
朝の光が部屋に差し込む。本だらけの部屋が明るく照らされ速水が先に目覚めた。
隣には一番大切な人の無防備な寝顔。昨夜の狂おしい感情はなりを潜め、穏やかな満ち足りた優しい寝顔だ。
速水が満足げに眺めていると、やがて彼も目覚める。
「おはよう、田口。」
「…お、はよう…」
寝起きの舌っ足らずな挨拶が速水の恋心をまた揺らす。そんな事も知らずに田口は半身を起こし、昨夜の情交でだるい身体をベッドから引き剥がす。ひとつ大きな伸びをする姿は猫みだいだ。そしてもう一度速水の顔を見た。
「…おはよう速水。珈琲、飲むか?」
「ああ。」
それだけ言うと控えめないつもの笑顔で「待ってろ」と言って部屋から出て行った。
愛しい人のためだけに珈琲を入れる幸せ。
温かくて、切ないこの気持ちが嬉しくて……
だから今日も…貴方のために珈琲を。
おしまい