お題: 『夜の海辺』 『つよがる』 『糸』
「…海が見たい」
渡海が突然呟いた。ここは彼の根城で、そこで専門書を漁っていた世良は「え?」と問い返した。
「海…ですか?」
「ああ、そうだ。夜の海なら尚更いいな。」
そう言って渡海はぼんやりとソファに身を沈めた。
「先生、今晩は空いてますか?」
もうすぐ終業という時に世良は渡海の部屋を再び訪ねた。
「何だ?晩飯でも集ろうってのか?」
人の悪い笑みを浮かべて世良をからかうのはいつもの事だ。
「違いますって。その…今夜海を見に行きませんかって…」
「は?」
渡海は不可解な顔になり、世良は呆れた顔になった。
「先生、夜の海が見たいって仰ってたじゃなですか。」
渡海は思い出して「ああ…」と小さく笑った。
「俺もそろそろ車を動かしたいと思ってたし、夜の海って見てないなぁと思って…」
本当の事なのに、何となく言い訳がましい感じになってしまう。この気持ちが何なのか、世良にはよく分からなかった。
「誘う女の子もいないんだな?」と図星を突かれ、世良は「そんなことありません!」と強がった。
意外な事に渡海は二つ返事でOKして、桜宮の海岸へと出掛けた。夜の海辺は波音が美しい。しかし同時に暗闇が胸騒ぎを引き起こす。
二人は黙って砂浜に立ち尽くした。世良は暗い海面を眺め、この闇色は渡海の瞳の色によく似ていると思った。
気付くと渡海が波打ち際まで進み、足元を濡らしている。そして遠く海の向こうを一心に眺めていた。
その瞳があまりにも真摯で世良は怖くなった。
そのまま渡海がの姿が波にさらわれて目の前から消えてしまいそうなほど儚く見えた。
「先生っ!」
世良はとっさに渡海の腕を掴んだ。振り向く渡海の目が一瞬だけ驚き、世良の真剣な視線と絡む。
「世良ちゃん?」
「…先生。」
世良は何と答えればいいか分からない。ただ黙って見ているだけでは二人を繋ぐ糸が途切れてしまいそうな気がしたから。
だから咄嗟に手が出てしまった。
黙ったまま腕を掴む世良を眺める渡海が、不意に小さく笑った。それはからかいや自嘲でもないふわりとした微笑み。今まで見たことの無い優しい表情に、世良はドキリとして息を飲んだ。
それは…言いようのなかったあの気持ちが恋だと確信した瞬間だった。