Fall in love3
【Side T】
速水が病院を去ってから、俺はひどく忙しくなった。
お役所関係やら委員会やらで目が回りそうだ。そうなると家に帰るのも煩わしくなり、書類や資料に埋もれて奥の院へ泊まる事になる。
最近は藤原看護師の出勤で目覚める。そしてついに今朝は
「先生はそのお年になって連続当直記録を更新されるおつもりですか?」
とやられてしまった。もちろんその言葉の端々には呆れと共に心配が含まれているのを感じる。
それでも俺は苦笑いで誤魔化し、黙って書類を片付ける。
忙しい方が良い。余計な事を考えずに済む。
心の蓋の重石は重ければ重いほど有り難い。
これでいいんだ…と自分自身に言い聞かせ、パソコンを立ち上げた。
「田口先生、ちょっと北国までおつかいに行って頂けませんか?」
「はぁ?」
急に病院長に呼び出されたと思ったら、また突然のお達しだ。
渡されたのは分厚い資料といくつかのファイル。
「あちらの大学から要請がありまして。届けて欲しいのです。」
「それなら郵送すればいいでしょう?」
「いや、実は先方がリスクマネジメント委員会について興味をお持ちでね。ぜひ委員長にお目にかかりたいというオプション付きなんです。」
高階病院長はにっこりと微笑んだ。
知らない人が見ればいたって無害な笑顔に見えるが、この人と多少の付き合いがあれば胡散臭いことこの上ない。
だが委員会の事を持ち出されては断りきれない。
俺は最低限の礼儀を保ちながらも、ひとつため息を落として了承した。
「ところで…速水先生とは連絡を取ってますか?」
「…いいえ。」
「彼が向こうに発つ時も?」
「ええ。あいつとは特に何も話してませんが…何か?」
迂闊な答えは出来ない。牽制のつもりで逆に問うが、唐突に話題を変えられる。
「田口先生は最近、自宅に帰る時間も惜しんで仕事をされていると聞きました。」
「まぁ、そんな美談ではないんですがね。」
情報源は藤原さんに間違いない。俺の仕事を増やしてるのはアンタでしょう?と言いたくなるのをぐっと堪える。
でも本当はそれが少しだけ有り難い。
「しかしオーバーワークは良くありません。この出張は金曜日にセッティングしますから、週末は向こうで羽を伸ばしてらっしゃい。そう、旧友の顔を見るのも気分転換に良いと思いますよ?」
…人の気も知らないで、残酷な事を言うもんだ。
俺が黙ってしまうと、更に言われる。
「速水先生とわだかまりが無いのなら、会って話してらっしゃい。長年の友人は大切ですよ?」
…そう、友人の範疇ならば、ね。
俺は院長室から出て、長い廊下を歩きながら思った。廊下の窓の外は夕日で染まっている。
速水とはもちろん友人だ。この一方的な想いを除けば…。
その気持ちを排除するにはまだ時間が掛かりそうだった。
―――病院長のあまり有り難くない厚意は辞退しよう。そうすべきだ。
そう心を決めると辺境の我が城へと足を早めた。
廊下に差し込む美しいオレンジの光に背を向けて…。
そして金曜日、俺は北の地に立つ。
俺の心情を表すようなどんよりとした曇り空に迎えられて、気分は更に下降気味だ。
約束の時間まで多少ゆとりがあるので、早めに大学に行き併設の図書館に寄って時間をつぶす。やはり本は落ち着く。
病院長は週末をこちらで過ごせばいいと言ったが、俺は自由にさせてもらう。
今日は日帰りで自宅に帰り、週末は部屋に籠もって読書三昧と心に決めていた。頭をからっぽにするには読書が一番だ。
大学での用件は意外と長引いた。
気付くとすでに夕刻で、日帰りを決め込んでいた俺は大学を後にしようとあたふたと校内を歩く。
正門までの真っ直ぐな道を急ぐと、門のところに人影が見えた。
―――ま、さか……
俺は目を疑い、一瞬立ち止まった。
そこには見間違えるはずのない男の姿が、俺に気付いて片手を上げて待っている。
「はや…み……」
止めてしまった足を踏み出すのには勇気がいった。しかしここまで来て逃げ出すわけにもいかず、動揺を悟られないように装って近づいた。
「よう、北の地へようこそ。行灯クン。」
相変わらずのからかうような笑顔で速水は俺を迎えた。
「俺がここに来てるの、よく分かったな?」
「この前高階さんから連絡があってな。そっちに行灯をやるから、週末遊んでやってくれだとさ。」
俺は内心で舌打ちした。さすが腹黒狸は用意周到だ。しかし今回は踊らされる気は更々無い。
「有り難い申し出なんだが…忙しいから今回は日帰りする予定なんだ。」
「えっ!泊まりじゃねぇのかよ?!」
驚いて、そして落胆する速水。そんなにがっがりする意味が分からない。
「そっか…お前も何かしらと押しつけられてんだな。」
「まったくだ。俺は便利屋じゃないんだが、高階さんじゃ断ると後が怖い。」
俺が憮然と本音を漏らすと速水は小さく笑って同意した。
「じゃ、空港まで送る。」
そう言うと速水は俺を車へと誘う。
あまり二人きりになるのは有り難くないのだが、この流れで断るのはあまりにも不自然なので厚意に甘えることにした。
「お前…あんまり顔色が良くないな。」
運転する速水が心配そうに俺を気遣う。
嬉しいけれど…甘えるわけにはいかないから、必要以上にポーカーフェイスで繕う。
「…そうか?気付かなかったな。別に具合も悪くないし。」
「そうか。」
郊外を走っているので、車窓は単調な景色ばかり。俺は車の揺れが気持ちよくて、いつの間にかうつらうつらしていた。
「着いたら起こしてやるから。」
「…う、ん……」
速水の声がひどく優しく響いて、俺は眠ってしまった。
つづく
腹黒タヌキが、何をどこまで把握してるのかは謎。ただ行灯狙いで優しくしてるのかもしれない。(←ならば残念!)